「hamanatran」(ハマナトラン)をいつもご覧いただき、ありがとうございます。
このサイトを運営するハマナトランこと浜田規史です。
このサイトは、ぼく自身のNPO・まちづくりの現場経験や出会いなどをもとに、読者の「ひらめき」や「行動」が誘発されるようなオモシロイ考え方やシクミ・ヒトなどの情報を発信しているブログです。
時々、結婚できないアラフォー草食系男子ネタも投稿しています(笑)
「hamanatran」とは?
私の名前の「hama(ハマ)」と「transit(トランジット)」の造語です。
浜田規史(はまだのりふみ)の「ハマ」、「接続する」という意味の「transit」(トランジット)を掛け合わせています。
ちなみに、「トラン」という化学物質が存在。 ジフェニルアセチレンともいう芳香族炭化水素の一つだそう。
ジブロモスチルベンの脱臭化水素反応により合成される化合物で、アセチレンの2個の水素原子がフェニル基で置換された構造を有する。 白色の結晶で、融点60~61℃,沸点300℃。
私に似て、「沸点は高め。でも静かに燃える(香る)」タイプ。物質の構造やカタチがお気に入りです。
今、どんなことしてるの?
現在、愛媛県在住の「フリーランス@無職」の33歳です。
前職であった金融機関を29年5月末で退職し、現在は充電中!いや、さらに羽ばたくための仕掛けを作っています。
高校時代に「商店街にお店をオープンさせた」経験から、地元が大好きになり、それ以降、15年ぐらいまちづくりの活動に携わっています。
現在も、地域活性化を目指す「NPO法人八幡浜元気プロジェクト」の代表理事、ローカルWEBメディア「KITONARU」(きとなる)の編集長、WEBメディア「greenz」(グリーンズ)のライターを務めています。
その他に、愛媛県内に限らず全国で地域活性・まちづくり系の講演やプロジェクト立案のワークショップ、プロジェクト育成・支援などの中間支援の活動も行っています。
お気軽にお声掛けください。
みかん農家の長男として誕生したよ
ぼくの実家は、生まれたときも、今もみかん農家です。
愛媛といえば「みかん」。「みかん」と言えば「八幡浜」と言われるように、味品質ともに日本一と評されるみかんを作っている産地です。
そんな家の「長男」として1983年12月30日に誕生しました。
(みかん農家にとっては、一番忙しい…迷惑な時期に生まれました)
生まれた時は、4500キロを超える大きな赤ちゃんだったそう。
その後も、食欲旺盛で、ぷくぷく育ち、いつの間にが膨よかになっていきました。
小さいときから「みかん」が大好き過ぎて、いつも寝る時は「指」を咥えていましたね。
保育所ではPA(音響)を操っていたよ
白浜保育所では、いつも泣き虫で甘えん坊の子どもで有名でした。
外でワイワイ遊ぶというより、室内で積み木で遊ぶことが好きな保育園児。
そんな中でも、父のステレオ好きが奏功してか、保育所の行事では、いつも「ラジカセやマイクなどのアンプ」を操作する担当に。
保育園でも変なところで存在感発揮していました(笑)。
慌てすぎて、頭を強打し、縫う手術を初めて受けたのもこの頃。
担任の先生からの贈り物ショクパンマンの腕時計がで今でも宝物です。
アナウンサー・学校の先生になろうと思っていたよ
勉強はできなかったけど、人一倍「変わったこと」をしていた小学生時代。
年上のかわいい先輩に憧れ入った「放送委員会」。
本気で、アナウンサーになろうと、練習していました。
小学校4・5・6年の時には、運動会や学芸会で、実況や種目案内などをしていました。
(本部席に入れる優越感は大きかったw)
また、小学校4年の時には、パソコンに出会うことになります。
たまたま家にパソコンがあったこともあり、いろいろ触っていました。
それで、作っていたこんな作品(初のパソコン操作)。
なんか「ふわふわ」していますね。
あとは、この頃から、「企画する」ということに興味を持ち始め、「旅行計画」とかガッツリ立てていました。
今見返すと、小学校のときにこんなことまで考えていたことに、自分でもビックリしました。
運動神経が鈍いのに運動部に入ったよ
なぜか部活に入らないといけなくて、かっこよさそうというイメージで「ソフトテニス部」へ。
部活は鬼顧問のもと、かなり厳しい練習に。かなり投げ出しそうになりましたが、最後までやりきることができました。
勉強や部活ではいい成績を収められなかったけど、「新聞記者になりたい」と志し、校内で変なことしていました。
例えば、「人権委員会でのドラマ撮影・全校放送」や(誰もお願いしていないのに)「全校生徒へのぼくのオリジナル新聞配布を先生にお願い」したりしていました。
そのせいもあり、中学校3年の時の学年の成績順位は100人中70位。
勉強全然していなかったからですね……
先生から「志望校の八幡浜高校には落ちるからやめとけ!」と言われ、ショックを受けましたが、
悔しすぎて…「いえ、ぼくは受けます!」なんて発言して、周囲が慌ててザワザワしました。
この時から、猛勉強がはじまり、ずっと勉強していました。
夜遅くまで、「ブラックコーヒー」ばっかり飲んでました。
そして、なんとか「合格」!
先生と周りを見返すことができた爽快感!とてつもなく大きかったんですよね〜!
自分自身に「やればできる!」「できないことはない」って、自信がつきました。
高校生でお店をオープンさせたよ
八幡浜高校では、商業科(情報処理科)に所属。パソコンや商業の勉強をする毎日。
偶然出会った部活動「商業研究部」の活動に入り、地域の良さや商店街の方々の温かさを初めて感じました。
地域の人に「喜んでもらえる」。
ぼくがこの人のために「何かする」……という気概がかなり強かったですね。
そんな中、高校2年生の時には、高校生のお店「AKIND(現在は「A★KIND」)を商店街に開店。
なんもわからんまま、開店準備から経営までやり、本当に多くの人に助けてもらいました。
この時、商売をされている商店主の方から、こんなハガキをいただき、今も大切に掲げています。
この考え方、今もぼくの心の中にあるんですよ。
また、この成果を発表する高校生の大会にも参加。
高校1年生の時、全国高等学校生徒商業研究発表大会に初出場。翌年には、全国で1校にのみ選ばれる優秀賞を受賞。全国の高校生の発想・行動力に刺激を受けた3年間でした。
この時、「まちづくりを仕事にしたい」と思うようになったんですよね。
大学でも暴れまくってたよ
「変わり者」であったことを活かし、当時珍しかった「AO入試(アドミッションオフィス入試)」で、山口大学に入学。
AO入学者の説明会の時に、学長から「この100名で山口から世界を回すぞ!」って言われて、すごくテンションが上っていました!
「ぼくらが、回してやる!!」って本気で思っていました。
「地域経済の専門的見識を身につけたい」と「吉村ゼミ」(地域経済論)に入りました。
商店街での実地調査を経て、卒論は「ソーシャル・キャピタルの形成と『地域活動』の可能性」のテーマで研究。
実は、この卒論は、今の私の活動の指針になっていることがたくさん詰め込まれているんですよね〜。
その他、市内道場門前商店街にて、地域通貨の社会実験をしようと、地元社会人の方々とともに、「地域通貨どーも」の取り組みを開始。実行委員長を務めました。
山口のインキュベーションセンターなどに出入りしながら、起業家やその支援者の方と交流が図られ、維新発祥の地山口の息吹を感じ、影響を受けました。
また、サークル活動として「山口大学学生赤十字奉仕団(通称:山大SRC)」に所属。施設訪問・献血推進などボランティア活動に打ち込みましたよ。
2回生時には、献血補佐、3回生時には、委員長(団体の代表)を務め、これまで毎期テーマが不在だった中「みんなの楽しいSRC」を打ち出し、役員とともに涙ながらの熱い1年を過ごしました。
正直、いろいろモメたりもしまくりました……(汗)
この時、飲食店のバイトやアパレルのバイトをやるも、全然合わず(向かず)、すぐ辞めました。
そして出会ったのが「新入生向けパソコン講座の講師」でした。
このバイトは、仲間にも恵まれ、かなり楽しくてずっとやっていましたね〜!
就職活動…実は「公務員」を目指していましたが、
正直、縁がありませんでしたねぇ。
就職したら「地域」に対する熱がさらに強くなったよ
地元に帰り、地域金融機関に就職しました。
ボランティア(NPO)の活動をして見えてきた「お金」(経済的視点)の必要性。経済の血液となりうる「お金」を、地域で「循環」させたいと考えるようになったんです。
金融機関では、1年目から「融資」の担当になり、地元の商店などに足繁く通いながら、お客さんの夢の実現のために必要な資金を融資していました。
融資の担当は、決算書という数字を見るだけではなく、現場という数字では見えないところを反映させて、審査・承諾をするという難しい仕事でした。
数字上は融資できないほど赤字でも、ぼくなりの見方で、「この経営者だったら間違いない」っていう根拠で何度も審査していましたね〜!
これは、本当におもしろくて、「信頼をお金に乗せていく」というイメージが本当に強かったです。
中には、ぼくの目利きやアフターが弱くて、うまくいかなくなってしまうお客さんもありましたが、多くの人に喜んでいただきました。
が、この仕事をずっとしていて、ある時、「意志あるお金を、意志ある人につなげたい」という思いが強くなりました。
預金というのは、「タンスに入れておくぐらいないら、利息がつく金融機関に入れておく方が安心だわ」という理由で多くの人が預けるもの。
融資は、「金融機関の判断でお金を貸す」もの。
という…「預け主と借り主」とが切り離されている状態に、違和感を覚えたんですよね。
ソーシャル系の活動をしていたからなんでしょうが、社会を良くするアイデアや事業に多くの人が応援してもらえるシクミって必要だと思いました。
金融機関という枠を超えて、「人のやりたいを応援したい」、「企業はもちろん、社会を良くするお金のデザインをしたい」、「意志ある人のお金を、意志ある人に託す」事業がしたいと思いました。
そうして、ぼくは、長期的にそれに取り組むために、29年5月に退職に至ります。
こんなステップで計画しているよ
ぼくは、自身が「地域でこんな存在になりたい」という思いで、今動いています。
図にすると、こんな感じですね。
そして、次のステップでそれを成し遂げたいと思っています。
① 「人が自然に立ち寄れる」場所を
次代を見据えた、地域発のイノベイティブな拠点を愛媛県内に開設します。
まずは、そこで、子どもたちに向けた「気づき」と「学び」をつくります。
多くの人が関わることで、「個人」の力が蓄積され、「チーム」の価値が高まっていきます。
② 「やりたいを叶える」事業を
子どもも大人も「ひらめき」から「やってみる」に変える応援をする事業をします。
無責任な応援ではなく、「伴に走ります」。
③ 「やりたいこと」に「人」が集まってくる、新たな「チーム」プラットフォームを
世の中の課題や夢に対して、お金ではない「助け合い」の精神のもと「チーム」で実現していく……そんなサービスをつくります。人の信頼・強みを最大限活かしながら経済を回していく仕組みをつくりたいです。
④ 「信頼のお金を創出する」事業を
「意志あるお金を、意志ある人へ」その仲介者となれるコミュニティバンクをつくります。
お金以上の価値をどう創出するかがポイントだと思っています。
⑤ Coming Soon……
アラフォー草食系男子だよ
いいことばかりではなく、ぼくの隙間も見せておきましょう。
自分への投資は人一倍旺盛ですが、唯一まだ叶えられていないのが「結婚」。親や親戚方々から、いろいろと言われているんですが、まだそこに至っておりません。
それはなぜが、それは「一人での楽しみ方が分かってしまったから」に他なりません。
ある意味、このブログはそんなオモシロイ視点も加えながら書いていきたいと思っています。
ぼくのできることは声かけてね
企画、地域活性化、チームづくり、団体の課題解決などの講演やワークショップができます。
団体の個別の相談にも乗ることができます。
特に強いのが、プロジェクトの量産・創造・フォローアップの分野です。
誰でも簡単に量産・創造できるワークシートを持っていますので、使い方などを含めてフォローできます。
あと、いいネタがあれば、ライターとして、取材をしたり、記事にもできます。
掲載・講演実績
※一部作成中
●読売新聞関西版「ふるさと あしたへ 仕事も地域活動も」掲載
↓ 最近、書籍になりました(アマゾンで買えますよ)
NPOブロガー目指してるよ
これは、ぼくの勝手な思いとして、「地域活動に取り組んでいる人は、その活動自体から『お金』を取りにくい」ということがあります。
なので、その活動からお金を取らなくても(もちろん、取ったほうがいいんですが)、ブログから一定の収入が入ってくるほうが、好きな活動に集中できると思うんですよね〜!
なので、ぼくは、この誰もが成し遂げられていないであろう「NPOブロガー」(NPOの活動最前線にいながらにもブログで稼いでいる)のジャンルを開拓・先駆者になりたいと思っています。
これは、僕自身、ここで言って(書いて)「ハードル」を貸しています。
みなさん、応援していただけると嬉しいです。
※ 発信力を鍛えるため、やぎぺーさんの「インサロ」にも入りました。
お問い合わせ
質問、ワークショップ・講演のご依頼なども受け付けております。
下記から、お気軽にお問い合わせください。